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1995

「義母の死んだ夏」

​震災とカルト教団で日本中が悲しみと怒りとで満ちあふれた1995年は私にとってもうひとつの深い悲しみの年になった。

夏のある日小さな病院の小さなベッドで家族に看取られながら義母が亡くなった。そこに母をこよなく愛し愛された妻の姿はなかった。
母の死を覚悟していたとはいえ「最後は自分がそばで看取ってやりたい」との思いが強くあったことは私も知っていた。当たり前といえば当たり前の話だが仕事に追われていた妻にしてみれば、せめて母の終わりの数日を共に過ごしたい、たとえベッドで臥して居るその横であっても、との思いだったろう。

私の悲しみは義母の死もそうだが、そんな妻の思いに対するものである。
自分の母の容態の重さを知らされないまま仕事に追われ、その日も息を引き取る少し前に知らされたのだろうか、私が駆けつけたときでさえ、妻はまだ来ておらず病院へ向かう電車の中だったようだ。こみあげてくる悲しみに涙しながら駆けつける妻を思うと不憫でならなかった。
駅前からタクシーで病院へ向かうとき、義母はすでに息を引き取っていた。周りではもう葬儀の話であり、義母を病室から運びだそうという段取りまで話し合われていた。娘が今、母の”死に目”に会うべく向かっている最中にである。
流石に私は妻の到着までベッドにそのまま義母を寝かせておくように少しイライラしながら言ったのを覚えている。
妻は少なくともベッドに横たわったままの母親に会うことは出来た、悲しみやら怒りやら様々な思いを抱きながら母親を抱きしめていた妻の姿を思いだすたび今でも切なくなる。
17才の春に父を亡くした私には、近しい人の死の悲しみがいかに傷つき深淵の底に突き落とされたような絶望感の極地であることかを理解出来る。

そんな街の片隅で起こった小さな、でも深い悲しみの1995年でもあった。

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